株式会社キノックス

きのこの雑学・しいたけの雑学

原木栽培の歴史について

きのこの人工栽培は、「しいたけ」が最も古く400年近く前に始まったと言われていますが、その歴史については、諸説あるのが実情です。よって、これまでの資料に基づいて、「しいたけ」の人工栽培の歴史についてまとめてみたいと思います。

(Ⅰ)人工栽培の起源
1)源兵衛説(豊後説)
一般的によく知られているのが、小野村雄著の「椎茸栽培の秘訣」で紹介されている源兵衛説です。すなわち、寛永(17世紀)の頃、豊後の国、千怒(ちぬ)の浦の炭焼き、源兵衛が始めたとする説であります。源兵衛は、炭焼き用のナラの原木に多数の「しいたけ」が発生しているのを見て、人工栽培を発案し、その後、試行錯誤を繰り返すことで、原木に鉈目を入れる方法やナラやクヌギが栽培に適していること、さらには発生を人為的に促すための「浸水打撲法」までを考案したと言われています。このような源兵衛の功績に基づき、昭和になってから大分県津久見市や宇目町には源兵衛の像が、また、同県の緒方町には「椎茸発祥の地」の石碑が建てられています。しかし、この源兵衛説に対し、「シイタケ栽培の史的研究」の著者である中村克也は、史実の裏付けや小野村雄の著書以前に大分県には源兵衛説の伝承がないこと、また、これほどの広範囲の技術を源兵衛ひとりの手でやり遂げるのにはかなり無理がある、ことなどを挙げ、疑問を投げかけています。

2)伊豆説
もう一法の説は、伊豆説です。しいたけ栽培を伝える最も古い資料は、豊後、岡藩城主の中川家の記事で、寛文4(1664)年、「しいたけ」の栽培技術を導入するために伊豆の国、三島の駒右衛門を招へいしたことが記されており、伊豆が豊後よりもしいたけ栽培の先進地であったことを窺わせます。この伊豆説を裏付けるものとして、以下のような各種資料も存在しています。

① 田中鳥雄の著書「椎茸養生法」(1896年)には、伊豆において「しいたけ」の人工栽培の始まった年代はよく判らないが、「刻み(鉈目)」の起源について、元禄時代(1688~1703年)、湯ヶ島のある人が天城山中でしいたけ用材を伐り、目印に鉈痕を付けておいたところ、そのものに良く発生したところから「刻みを入れる」と称して「刻み(鉈目)」を入れる技術が行われるようになった記録が残存。
② 延亨元(1744)年、幕府の三島代官、斎藤喜六郎が伊豆の湯ヶ島口の山守、板垣勘四郎をしいたけ栽培の師として、駿河の安部群有東木村に派遣した資料が残存。
③ 伊豆の石渡清助や山崎善六らが明和元(1764)年~天明4(1784)年の間に伊豆から遠州にかけて手広くしいたけ栽培に取り組んでいた記録が残存。
④ 1800年代に入ってからは、豊後、佐伯藩の茸山の杣頭(そまがしら:林業に従事する組織の組頭)に伊豆の斎藤重蔵がなっており、「しいたけ」の栽培技術を地元民に伝えたという記録が残存。


3)中国伝来説
前述の2つの説以外にも、「しいたけ」の人工栽培の起源については、中国(明の時代)から伝来したとの説もあります。中国においては浙江省慶元県の「呉三公(1130年生まれ)」がしいたけ栽培を教えたのが始まりで、我国よりも500年以上も前と言われています。室町時代に西国で勢力を得ていた大名の大友氏が中国から栽培技術を導入したという説ですが、この説の出所は明らかになっていません。

 

以上のような資料から判断して、「しいたけ」の人工栽培の発祥に関しては、「伊豆説」の方が「源兵衛説(豊後説)」よりも説得力があるように思われます。なお、伊豆や豊後以外の地域では、津藩が1700年代末にしいたけ栽培を直営事業で行ったことが記録として残されています。

(Ⅱ)近代人工栽培の黎明期
1700年代に始まった「しいたけ」の人工栽培は、100年以上もの間「鉈目方式」で行われてきましたが、1800年代の終わりになって栽培方法に変化が見られるようになり、急激な技術の進歩を遂げるようになります。以下に中村克也の資料を基に、開発技術の流れを箇条書きに整理してみました。

① 1895年(明治28年)
田中長嶺は、菌糸の良く蔓延している榾木を粉末にして、それを原木に振りかける人工接種法を発案。同時代の楢崎圭三は、この田中式接種法に胞子を混ぜるなどの工夫を加え、熱心に各地へ普及。
② 1900年代(明治後期)
三村鐘三郎は、鉈目を付けた原木の間に「しいたけ」が発生している榾木を入れ、胞子の付着を容易にするという「種木挿入法」を考案。さらには、完熟榾木の一片を切り取って新原木に埋め込む「埋榾法」や完熟榾木を粉にして、それに水を加えた榾汁を作り、その中に原木を浸け込む「榾汁法」も考案。
③ 1910年代(大正時代)
乗兼素冶は、胞子の懸濁液を鉈目に播種する「胞子液法」を開発。同年、今牧棟吉は、乗兼の方法を改良した「胞子注射法」を提案。
④ 1920年代(昭和初期)
山田保一は、昭和の初期に三村の「埋榾法」 に改良を加えて復活。原木に円形一寸の穴を開け、そこに榾木の木片を埋め込む栽培方法を考案。この埋榾法はこれまでの考案技術に比べ、かなりの好成績を収めたことから全国に普及。 「種木」を販売する「種菌業者」の先駆者。
⑤ 1928年(昭和3年)
森本彦三郎は、純粋培養種菌の先駆けとなる「鋸屑培養種菌」の開発に成功。少し遅れて河村柳太郎も同じく鋸屑種菌の純粋培養を開始。
⑥ 1937年(昭和12年)
北島君三は、森本や河村らの鋸屑種菌の純粋培養法の技術を学術的な立場から完成し、「純粋培養種菌法」として全国に普及。
⑦ 1942年(昭和17年)
森喜作は、北島の鋸屑を使用した純粋培養種菌に代わって「種駒」を使用する純粋培養技術を発明。種駒種菌が開発されたことで、効率よく植菌ができるようになって全国各地に普及、きのこの産業化に大きく貢献。

鉈目式栽培法では榾化が自然任せであるため発生は極めて不安定でしたが、純粋培養種菌法の技術が開発されたお陰で安定した栽培が可能となり、しいたけ栽培は全国へと普及し、日本林業を代表する一大産業(林業産出額の50%を栽培きのこが独占)へと発展して行くのです。現在ではきのこ類の総生産量は年間45.8万t(乾しいたけは生換算)、生産額で2,300億円(2013年)その内、「しいたけ」は760億円(乾、生合計額)と生産額においては、トップの座(生産量は「えのきたけ」がトップ)を占めるまでに躍進するように なるのです。